2004年11月23日 八ッ場ダム住民訴訟スタート集会 (カテゴリー: 法律・制度 , 八ッ場(やんば)ダム )

ここのところ、人前でお話すること多し。
先週18日はあるNGOでのざっくばらんなロビー講座、19日は「青の革命と水のガバナンス」という研究会での河川法についてのお話。前者では、「審議会ってなんとかなりませんかね?」というボヤキを聞かされ、後者では「河川整備基本方針は『密室』で決まり、河川整備計画は『裁量』で決まります」と河川法の構図を単純化してお話したところ(案の定)、「『密室』ではなく、ちゃんと『審議会』という場を通す」と国交省の関係者から反論があって、面白かった。
(右上写真は、群馬県長野原町。八ッ場ダム予定地のご当地は、浅間山が噴火で山が崩れて、吾妻川に雪崩れくだり、泥流が通過していった場所。写真は、2万4年前の噴火で堆積した「応桑岩屑なだれ」。いわば山の残骸が、不安定に重なってようやっと落ち着いているところ。様々な岩や石が無秩序に入り乱れているところが、この写真でよくわかると思います。ダムの水を貯めると、このグチャグチャの地質とその下の土との境目が、すべる(地すべりを起こす)のではないか、と言われている場所です。)
11月27日(土)にはオーフスネットの設立一周年記念(条約の翻訳完成記念)の報告会「環境に関する情報・参加・司法の国際動向」。「台湾ダム代替案会議・報告」というお題で私もお話ししますが、このサイトでは報告しなかった「政府援助」の世界で白熱中(?)の「社会環境配慮」に焦点をあてて、国と、国の法律が届かない「国際間」の関係で果たす「法秩序」ってなにかしらん?ということを考える材料を提示したいと思っています。(うまくいくかしら。これから金曜日まで出張なので昨日徹夜してパワポで仕上げたけれど…)
11月27日、モンベル渋谷で15:00~17:20ですが、よろしかったら、ぜひお越し下さい。お申し込みはこちら。
★ 前置きが長くなりましたが、今日の本題。
「ストップ!八ッ場ダム~住民訴訟スタート集会~」が、これも渋谷であります。
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日時:2004年 12月5日(日)午後1時20分~4時30分
場所:渋谷フォーラム・エイト(FORUM 8)6階 オリオン・ホール
渋谷駅ハチ公口より徒歩7分、道玄坂のぼる
東京都渋谷区道玄坂2-10-7、新大宗ビルTEL 03-3780-0008
資料代:1000円 主催: 八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会
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9月10日に6都県(東京、茨城、埼玉、千葉、群馬、栃木)で行われた一斉住民監査請求(請求人は5400名)ですが、すべて却下と棄却という結果だったと、東京では、昨日、東京地裁に対して、さっそく提訴が行われました。(各紙22日の夕刊などに出ています。)
これを受けて、今度は住民訴訟、という区切りのスタート集会です。
▼ オープニング・ミニコンサート~吾妻渓谷のビデオを見ながら~▼ 原告団から「八ッ場ダム住民訴訟の意義と要点」
▼ 講演「八ッ場ダムは利根川治水に役立つか?」
大熊 孝(新潟大学教授・治水研究の第一人者)
▼ パネルディスカッション「治水、利水、地質~史上最悪のダムを総点検!」
大熊 孝(新潟大学教授)/矢部 俊介(土木工学専門家)/
嶋津 暉之(水源開発問題全国連絡会・利水の専門家)
いけないなぁ、という方は、おカネで支援という手もお勧めです。弁護士さんたちは、ほとんど「手弁当」^^;。以下は、八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会からのお願い。
~~~~~~~おカネで支援~~~~~~~~~~~~~~
6都県の方は「各都県の八ッ場ダムをストップさせる会」へ。それ以外の方は「東京の会」へご入会ください。年会費一口1,000円/カンパは随時受け付け。振り込みは、下記の郵便局の振替口座へ。「通信欄には、会費・カンパの別、また、連絡経費の軽減のためファックス番号やメールアドレスなどもご記入下さい」とのこと。
八ッ場ダムをストップさせる群馬の会 027-224-8567 鈴木 庸 振替 00150-2-356373
ムダなダムをストップさせる栃木の会 0285-23-8505 伊藤武晴 振替 00140-1-500609
八ッ場ダムをストップさせる茨城の会 0297-72-7506 神原晴美 振替 00160-8-556816
八ッ場ダムをストップさせる埼玉の会 048-825-3291 藤永知子 振替 00180-2-334064
八ッ場ダムをストップさせる千葉の会 043-486-1363 中村春子 振替 00120-5-426489
八ッ場ダムをストップさせる東京の会 042-341-7524 深澤洋子 振替 00120-8-629740
その他問い合わせ:八ッ場ダムをストップさせる市民連絡会 03-3512-3443 谷合周三法律事務所または上記の藤永・深澤へ
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本日は、民主党の管直人さん(民主党のネクストキャビネットの国交大臣)らが、現地を視察しているようです。52年もの間、都会から打ち捨てられていた問題が、国政の課題へと一歩近づいた日でした。
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
2004年11月15日 美濃ダム2 (カテゴリー: International )

林さんの情報シャワーから、美濃ダム反対運動のクライマックスの一幕を簡単に整理すると次のようなことになる。
1999年5月27日と28日、林さんたちは立法院(日本で言う国会)にダム予算を削除するよう抗議デモを行った。「夜の12時に美濃を出ました。朝の6時に(台北に)着きました。それから皆で、立法院の前に立った」と林さん。
狭いバスに揺られてぎゅうぎゅう詰め、疲れるわ、眠いわ、腹は減るわ。おまけに立法院に着くと、雨が降っていた。林さんたちは『お願いします』と声を張り上げた。しかし、議員たちは雨の中、足早に通り過ぎて建物の中へ入っていく。
(右写真は、美濃で最初に住民を集めて開いた大集会の会場となった小学校。正門から、その集会を行った講堂(写真中央)を望む)
手弁当で駆けつけた林さんたちとは対照的で、ダム推進派は32台のバスでゆったりと到着した。彼らは高級ホテルに泊まり、美味しいものを食べて、次の日はどこかのダムを見に行った。水資源局がスポンサーになっていたという。彼らの垂れ幕には、「食べ物あります。おやつがあります。褒美もでます。一緒にデモをやりましょう」とあった。
推進派が台座に登りマイクを握ろうとすると、反対派が引きずり降ろす。もみくちゃの大変な騒ぎだった。

私のお気に入りのエピソードは、反対署名を集める過程だ。
「一軒一軒回って賛成反対を調査した。美濃の人口は4万7千人。全員に反対か賛成かを聞いて回った」
この偉業を成し遂げたのは、農作業の合間を縫って動いた女性達だ。その結果、72%、2万4238人の反対署名が集まったのだと。
(左写真は、美濃反ダム大連盟の事務所。様々な団体が様々な違う役割を演じた)
このエピソードに関するさらなる私のお気に入りは、美濃愛郷協進会初代理事長 鐘鐵民さんの語りだ。
「(運動を始めた)初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」というのだ。一朝一夕の運動ではなかったのだ。

これは、「運動を始めたころ、一番大変なだったことは、何ですか?」という私の質問の中で飛び出した答えの一つで、「一番大変だったのは、一地域の問題を、どう全体の問題にしていくかだった。美濃の多くの人は、ダムができた方がいいと思っているのではないかと思った。だから、19ある各里(各集落)で、ダムとは一体どういうものなのか、ダムができることはどんな結果をもたらすのか、説明会を開いて、みんなで把握していくこと、そして力を集めていくことから始めた。始めた頃は、あなた達は自分勝手だ。自分のところにダムを作りたくないのだろうと言われた。初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」
時間と熱意をかけて、何が真実かを伝えながら皆で考えていくこと。何事もこれより他に方法はないのだ。
(右写真は、10月18日に歓迎・交流会として開かれた「アジアン・ナイト」の模様。アジア各国からの参加者が出し物、芸を披露した。)
そして、反対運動は次の段階を迎える。
推進派と賛成派がぶつかり合ったデモの翌年、2000年3月18日に行われた総統選選挙で、野党だった民進党の陳水扁政権が誕生したのだ。
実は、陳水扁は、1999年2月に美濃を訪れた際、僕を応援したらダムは作らないと約束をしていた。「この時は陳水扁が当選するとは思っていなかった。国民党を倒すためには彼を支持するしかなかったのだ。他に選択肢はなかった。」そして、彼らは陳水扁を応援、陳水扁は当選した。
そして、当選してお礼参りに来た時の陳水扁の第一声が「ダムは作らない」だった。
「社会運動は必然的に政治運動にならざるを得ない。そうでなければ何も変えられない」
という初代理事長・鐘鐵民さんの言葉。一から運動を作り上げた人が言う言葉だからこそ重い。もっと重く響いたのは、鐘鐵民さんが私に語った締めくくりの言葉だ。

ダム建設反対運動を起こしたのは年輩者たちだった。そこに若い人が参加して、運動が盛り上がっていった。そしてこの運動は、美濃の地方自治、住民自治の運動へと変わり始めたのだ。「故郷を守るのは、これから長く続く運動だ」と。
(左、長老達と、運動を引き継いだ若者たちの合同写真を撮らせてもらいました。守り抜いた山の風景を背景に。)
* * *
二代目理事長、現理事長、そして現事務局長など、もっといろいろな話を伺うことができました。しかし、ネット上での報告はこれぐらいにします。というのも、「台湾」を訪れた当時(1ヶ月前)の私の頭と心で吸収できた情報は、ここまでだったからです。
帰国後、消化不良だった部分がこなれてきました。それは何かと言えば、美濃の運動と切り離すことができない台湾の歴史です。台湾で1949年以来敷かれていた戒厳令は1987年に解かれました。戒厳令とは、統治者批判ができないことを意味します。
それまで国民党に対して物が言えなかった人々の「言論の自由」(=政治・思想・信条の自由と言ってもいいのでしょう)の歩み、つまりは民主化運動(=改めて考えてみるとこれは、政治・思想・信条の自由のある生活を進めることですね)と、美濃の運動を、切り離して考えることはできないわけです。まさしくこのことを二代目理事長から聞いたとき、私は、理解できていませんでした。
1987年から2000年、なんという短い間に、台湾は多くのことを成し遂げたのか。そしてその間に、なんと大きな運動を美濃の人々は成し遂げたのか。
別の深さの感動が、今、私の中に押し寄せています。
台湾や美濃で取材したことを、どんなメディアでどんな風に紹介できるんだろう?と考えながら少しづつ営業活動をしてきましたが、ようやく、書くべきもう一つの切り口が見つかったような気がします。
言論の自由も、政治・思想・信条の自由も、当たり前のものとして持っていたつもりの私にとって、美濃の運動の重さを受けとめることは、改めて、自分が持っている言論・政治・思想・信条の自由の価値に気づく体験となったわけでした。
ネット上での台湾報告メモを終わります。
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
2004年11月12日 美濃ダム1 (カテゴリー: International )

台湾から帰ってきておおよそ一ヶ月。今日はようやく美濃ダムのことを報告します。
まず右の写真をご覧ください。畑の向こう、向かって左側に三角にとがった山のピークが見えますか?美濃ダムはこの左の山のピークから右の手前の山へと線を引っ張っていたところに、コンクリートの壁が来る計画でした。
It has been almost a month since I visited Taiwan. I better start reporting on the Meinung Dam. The photo on the right shows you, beyond the field, a pointy mountain peak on the left. From that peak to the mountain on the right you can imagine the concrete wall of the Meinung dam standing in between, which was the government’s plan.

「高さ147メートル、横230メートル」とダム計画をそらんじて教えてくれるのは、林△芳さん。
「反対運動を始めた長老達に会いたい」という私のリクエストに、美濃愛郷協進会(MPA)のメイピンさんが「ほえい?(台湾語で、「モシモシ」という意味らしいが、その語感がキュート。「ほえい?」と誰がが電話する度に聞き惚れていた)」と、次々と電話で呼び出し、続々とダム反対運動の中心となった長老たちが集まってきてくれた。
その場所は、どうやら、普段は、農機具や車などを置く場所。それが運動の拠点の一つになっているのではないかと思う。彼らが守った山の風景が一望できる見事なスポットだ。
“It’s 147 meters high and 230 meters wide.” So Mr. Ling (photo on the left) told me about the dam project. In response to my request to see the elderly who started the dam anti-movement, one of the youngest members, Maiping from MPA called them up. And they started to gather one by one to a place where they probably use for storing farming tools and gear. I gathered this place was also shared by anti-dam campaigners’ get-together. It is one of the best places to capture the whole view of the planned dam site.
全員が揃うまでの間、持ってきてくれた沢山の資料を見せながら、待ちきれないかのように「これをキミにあげよう」と、日本語でお話しを始めてくれたのは、林△芳さんだ。初老のおじいさんに「キミに」と言われたのは初めてで、なんだか、ドキドキした。「キミ」は、きっと、林さんが少年の頃に少女に向けて使っていた言葉なのだ。そう思った瞬間に、こちらまでが、タイムカプセルで、林少年と同年代の一時代前の少女になったような気持ちになってしまった。
Unable to wait for some others to arrive, Mr. Ling started to explain what happened those days by showing a heap of papers and saying, “I will give you this”. But the expression caught me in a little surprise because of the word “kimi” for “you” in Japanese. It is not everyday event for me to be called “kimi” by the nice gray-haired man nowadays in Japan. I felt I hopped on to a time-machine to go back to the Japanese ruling time when Mr. Ling was still a boy and he and other boys were forced to speak the Japanese language and mention “kimi” for mentioning girls for “you”, which is rather rare in modern Japan. (I will translate the rest of the report later, sorry!)
日本は昔、台湾を50年も統治していた。日清戦争で負けた清が、台湾に住んでいた人々には断りもなく、台湾を日本に譲渡してしまった。以来、第二次世界大戦で日本が負けて引き上げていくまで、台湾は日本の統治下にあった。
林さんが話す日本語は、だから、終戦までに覚えさせられたかつての侵略者の言葉だ。林さんだけではない。私がお会いしたほぼすべてのご老人が、なんらかの日本語を覚えておられた。ご自分で話せるほどには覚えていなくとも、私の話す日本語が、純子さんの台湾語通訳を待つまでもなく要所要所で理解されているらしいことが、彼らの頷くタイミングなどから、分かることもあった。
美濃に着くまでの間に、心をある程度整理しておいて良かったと思った。そうでなければ、林さんたちの目を真っ直ぐ見ることもできなかったかもしれない。少年時代に日本語を覚えさせられた人々に、私は一体、どの面を下げて会えばいいのだろうかということだ。

思いがけず最終的に心の整理を手伝ってくれたのは、若きイーティンだった。美濃へ向かうバスの中、美濃に着いてからの取材の相談をしている時だ。それとなく長老たちが私から取材を受けることについてどう思っているのだろうかと聞いたつもりだった。
すると彼女は私の心境を見透かしたように、「アツコ、かつて貴方の国がしたことを、申しわけながる必要はないョ」と、一つの話をしてくれた。
「私のおばあちゃんは、日本時代の方が(その後の蒋介石たち国民党時代より)秩序があったし、泥棒も少なかって言うよ。そりゃ、日本の警察や軍にヒドイことをする人が中にはいたらしい。でも、日本人が出ていった後の方がひどかったって」
美濃へと発つ前、台北にいる間に、台湾在住の日本人の方に聞いてもみた。
「私がニワカ勉強をしたガイドブックに、台湾の人々は日本人への悪感情を不思議と持っていないと書いてありましたが、それは本当なんでしょうか」と。
その時に聞いた答え、このイーティンの話、そして滞在中に見聞きした話や、帰国後に読んだ本には、共通点があった。
それは、統治された者の目から見た、統治者に対する「比較の問題」だ。
たまたま日本よりも後に来て、日本から台湾を開放したはずの新しい統治者たちの無法ぶりが、目に余るヒドサだったので、日本人はマシだった、毒がもっとヒドイ毒で打ち消されたという話しなのだ。(なんだか、フセインと米軍を思い出すではないか)
もちろん、今の若い人たちに日本人に対する敵意も悪感情もないのは間違いない。だが、彼らの祖父母世代からすれば、やはり、自分たちの言葉を奪われ、別の言葉を強制され、再び奪われ、再び別の言葉を強制され、つい最近まで(民進党が政権を取るまで)、台湾語を制限されていた。そのすべてを体験したご老人たちの心に、悲哀がないわけがない。
(右上の写真は、「美濃湖」。看板などに書いてある正式名称は「中正湖」。中正とは蒋介石のことだが、彼らはそう呼ばずに「美濃湖」と呼ぶ。これ一つとて、美濃を雄弁に物語る。)
さらに言えば、美濃の人々は、台湾というアイデンティティの他に、美濃で95%を占める「客家(ハッカ)」というアイデンティティも持っている。客家語という言語もある。
若い人や子ども達の間で、じょじょに廃れつつある言葉だ。その文化とても、長年に渡る侵略の時代がなければ、今とは違う姿があったはずなのだ。
ガイドブックにあるような日本人に対する悪感情がない、という単純な、日本との関係の中だけで整理できることではない。そう受けとめた上で、それから先は、澱みのない気持ちで、台湾の人々にまっすぐに接することに決めた。

美濃ダム反対運動の悲喜劇を、無邪気なほどにまっすぐにぶつけてくる林さんのエネルギーのシャワーを浴びながら、私は、そう整理しておいたことを良かったと思った。過去に起きたことを受けとめた上で、どの世代とも新しい関係を築き、尊敬しあえるよう頑張らなければと思えたのだ。
(左写真は、美濃湖から見た日の出)
次回は台湾報告最終回。
2004年11月06日 ダム問題ダイジェスト (カテゴリー: 法律・制度 , 住民参加 )
全国各地から小豆島に集まった人々の報告から、ダイジェストを作ってみました。

●川辺川ダム事業(熊本県)
03年5月、川辺川利水訴訟で農家が農水省に勝訴。違法事業であると裁きが下された農水省は、現在、新・利水計画を模索中。「ダム案」と「非ダム案」で農家にアンケートを取ろううとしている。ところが、農水省は「ダム案」については市町村補助で農家の負担を軽くしようとしている。原告側は「非ダム案」を推進し、「どちらの案でも農家の負担は同じにすべきだ」と原告副団長の茂吉隆典さん(ピンぼけすいません)。詳しくは例えばココ

● 山鳥坂ダム事業(愛媛県)
04年3月に閉じた肱川流域委員会で、国交省は住民参加を認めなかった。5月、山鳥坂ダム建設を含む新しい河川整備計画を、河川基本方針の決定からわずか半年でスピード決定。その後も、市民グループは住民討論会を求め、出前講座や説明会などが実現した。しかし「国交省は質問にまともに答えない」と有友正本さん。焦点は基本高水。詳しくは、山鳥坂ダム建設の中止を求めるHP ヒジカワドットコム
★解説★97年の河川法改正で、建設省(当時)は、「ダム事業など大規模な事業を伴う場合は、河川整備計画策定時(第16条の2)に、住民参加をさせる」と繰り返していました。それすら徹底されていない。国交省の時計は、反時計回りしていました。
● 内海(うちのみ)ダム事業(香川県)
「3年前に7人で運動を始め、全国集会を開催できるほど盛り上がってきた」と報告をしたのは、85歳になられる「内海ダム再開発事業と国立公園寒霞渓の自然を考える会」の櫛本いとヱさん。(前々号をご参照ください)

● 苫田(とまた)ダム事業(岡山県)
ダムそのものは完成し、来年から本格運用の予定だが、前倒しで年内に完成式が行われるという。土地収用を巡る裁判がいまだ展開中。「これからも理不尽さを訴えていく闘いをやっていく」と橋本省吾さん。(水没予定地に生まれ育った友人がいるため、私(まさの)にとっても個人的な思い入れがある。)

● 細川内(ほそごうち)ダム事業(徳島県)
「細川内ダムは、前木頭村長・藤田恵氏を先頭に、完全中止になりましたが油断ができない。というのも、五ヵ町村合併により、『ダム建設阻止条例』を破棄することになりかねない。だが、なんとしてもこれだけは確保しておかねばならない」と、「条例」という村の財産を訴えたのは、木頭村の田村好さん。木頭村の公式ウェブサイトはもちろんあるのですが、村長が変わってから、だんだん寂しいサイトに…。頑張れ、脱ダム日本一の村!

● 徳山ダム事業(岐阜県)
木曽川水系は水余り状態で長良川河口堰が建設・運用され、さらに徳山ダムも建設。03年、1010億円増額を水資源機構が打ち出したところ、自治体がさすがに反発。フルプラン改定に至る。しかし、新河川法による河川基本方針も整備計画策定の手続も飛ばして、利水ダムが治水ダムに化けた。「脱法行為だ」と訴えたのは近藤ゆり子さん(ピンぼけ失礼!)。

● 太田川ダム事業(静岡県)
「知らぬ間に流域委員会がつくられた」とグループ太田川水未来の岡本尚さん。参加したいと申し入れたが、委員長からは「固まっている各種の計画の当否を検討する会ではない」「ダムは存在しているものと仮定」して太田川の河川整備計画案について意見をもらう会だと断られてしまったという。17名の委員のうち、河川についての学識経験者は2名、川に関する市民団体の代表が2名。その他の住民参加はなし。
(感想:あえて詳細しませんが、強いエネルギーを感じる報告でした。)
★ 解説★河川法において「住民参加」と言えるものは、その16条の2で、「河川管理者は、(略)必要があると認めるときは、公聴会の開催等関係住民の意見を反映させるために必要な措置を講じなければならない」とされているところのみです。その書き方は漠然としています。ただし、「公聴会の開催等」の「等」には無限大の可能性があり、「関係住民」もまた、岡本さんたちのように関心がある住民すべてを含めることも、行政の裁量の範囲、という意味では無限の可能性を秘めています。太田川の流域委員会の委員長は、法律が読めない人、もしくは読んだことのない人、もしくは、その理念や意味を理解できなかった人、もしくは自分の頭で「民主主義」の意味を考えることができず、行政事務局に従うだけの人だったのでしょう。この意味で、現時点において、法が定めた理念に「最も近い」とされているのは、淀川水系流域委員会の例(問題、課題はありつつも。ここも全国からの注目が必要な、あやうい正念場を迎えています)です。しかし、全国で、「等」や「関係住民」の幅は、「狭く狭く」解釈されているのが実態です。
★ 解説★この日記は河川法を「改正しようヨ」と訴えてはいますが、それ以前に現行法が適切に運用されていないという点にも気に留めておいてください。それこそが現行法の限界であり、だからこそ、97年に(今よりももっと無知なりに私も含め)コツコツと作業をして、市民団体として改正対案骨子を作り、野党から議員立法で国会に提出してもらった所以です(野党案も理想からは少し離れてしまったのですが)。
「やっぱりね」と言いたくはないですが、1,河川管理者(国や都道府県)が基本方針を定め、2,二段階目で、必要だと河川管理者が思えば、住民参加をさせて整備計画を策定、という中途半端な、曖昧な住民参加条項では、ダメでしたね。「解釈」の幅が広すぎて、行政の思いのままになされる河川行政では、以前と何も変わりません。
★感想★
台湾の国際会議に、日本の国土交通大臣か事務次官かという立場の政府高官トップが呼ばれて出席したように、こうした集会に、せめて河川局長が顔を出す力を、日本の市民団体がつけていかなければと思います。
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● 辰巳ダム事業(石川県)
「犀川の基本方針と整備計画は、御用学者によってつくられた」とナギの会の渡辺寛さん。「基本高水を下げさせたり、規模を縮小させたり、辰巳用水取水口を守ったり、成果は上げてきた。だが、一連の豪雨をきっかけに、犀川の堤防・河道整備を行政が40年に渡り怠ってきたことが判明した」と報告。

● 奥胎内ダム事業(新潟県)
「新潟では大水害があったが、ダムを造ってくれという話には結びついていません。逆に、ダムがあったのに大水害が起きたことで、ダムに責任を帰する声が大きい」と「奥胎内ダムを考える会」代表の三橋允子さん(またまたピンぼけごめんなさい)。「奥胎内ダムについては、基本高水が過大に設定されています。ダムの代わりとして、堤防・河道整備を訴えていきたい」と。

● 八ッ場(やんば)ダム事業(群馬県)
「昨年の今ごろまでダムのことを知らなかった」と話す「八ッ場ダムをストップさせる東京の会」の田中清子さんは、「東京都は、事業費の倍増を真っ先に受入れました。住民監査請求を進めてきたが、東京都監査委員会はこれを門前払いし、多くの市民が怒っている。これからも輪を広げてストップさせたい」。
一方、八ッ場ダムのご当地である群馬県から来た「八ッ場ダムを考える会」の真下淑恵さんは、「市民の関心を高めるため、多くの人々に水没地を見てもらう活動や集会などを実施しています。利根川下流の人々とも連携していきたい」と。
04年12月5日は、八ッ場ダム住民訴訟スタート集会(pdf形式)です。
総会では、この3分間報告の後に、マイク奪い合いの、ケンケンガクガクの討議が行われ、その論点は、おおよそ次のように集約されました。
1.想定規模を超えた豪雨に対して、ダムは無力どころか、大きな災害をもたらした。
2.台風や集中豪雨による災害は、ダムに依存し、河道整備を遅らせたことに起因する。
3.森林の荒廃は、保水力の低下をもたらし、流木による被害を拡大した。
4.欠陥のある堤防が各地に存在し、それが破堤を引き起こし、甚大な被害をもたらした。
一見、各地で起きた水害ショックの直後ならではの討論のように見えます。しかし、これらは皆、これまでの河川・森林行政のツケであり、過去の河川・森林行政の結果なのだとも言えるのではないかと思いました。「治山治水」(山を治めるものが水を治める)という先人達の言葉が、妙に重く感じる年ではなかったでしょうか。
次回は、一端、台湾報告に戻りたいと思います。
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
2004年11月05日 ダム問題ダイジェスト(その前に) (カテゴリー: 遊び )

10月30日、香川県小豆島の内海町で開催された「水源開発問題全国連絡会」(1993年結成)の第11回の総会を取材しました。日本のすべてのダム問題ではないのですが、その多くについて各地の市民団体が3分づつで行った報告を聞くことができたので、簡単にレポートしておきたいと思います。
でも、その前に・・・今日は前置きを書かせてください。
(写真は小豆島で今、地面や石垣じゅうにびっしり咲き乱れている花)
実は、私、1995年から97年まで、徳島県の細川内(ほそごうち)ダム計画について、アクセルを踏みっぱなしで密にレポートして完全燃焼して「灰」になってしまったことがあります。
その後、ダム問題についてはアイドリング状態にして他にエネルギーを分散させ、さらにここ丸1年はパーキング状態にしていました。
きちんと「ダム問題」と向きあうのは、ですから数年ぶりです。
まだウォームアップ中ではありますが、ODAダムも含めて、97年以降に消化できずに私の中で「保留」にしていた事柄を、私になりに受けとめることができる気力と体力を回復していることに気づいたのも最近のことです。
言い換えれば、「あ~、疲れがとれた」(本当は疲れを取ろうと思ったわけではなく、ニンシン しようと思って仕事から退いているうちに、長年の疲れが取れてリフレッシュしているのに気づいた、というのが正解ですが)と思って立ち上がったところに渡されたボールが八ッ場ダム」問題であり、「ODAダム」であり、「河川法問題」(市民参加であり情報公開の問題)でした。それが、この日記のカテゴリーそのものになっています。
オーフス・ネットの学習会用に97年以降の河川法の実態を、え~、私なんかでいいのか?と不安に思いながらも把握しようとしてみたところ、その実態のヒドサ(行政の不作為ぶり)に改めてびっくりし、慌てふためいてなんとかしなければと始めたのがこの日記です。
河川法改正(97年)以降の、旧河川法体制からの移行作業が進んでいないことは、ここ数年、気にかかってはいながら、なんとかしなければという気力と体力がどうにもこうにも湧きませんでした。それは、今考えると、人並みにくたびれて「灰」になっていたからだ、と思うことにして、新たな出発となったわけです。

ただし、今度は、灰にならないように、個人的な生活も大切にしながら、マイペースで、かつライフワークもヨタヨタと楽しみつつ(たとえ成果が出ようと出まいと)、進んでいこうと思います。
と、そんなふうに思っていたときに、まるで社会復帰のための足場のように、このスペースを提供してくださったvivaの皆さんと、アップロードの仕方をコーチングしてくれた後藤隆さんに、この場で心から感謝します。
まずは、「ダム問題ダイジェスト-その前に」でした。
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
2004年11月02日 内海ダム (カテゴリー: 住民参加 )

「二十四の瞳」で有名な瀬戸内海の小豆島へ行ってきた。ここには内海(うちのみ)ダムという多目的ダムが計画されている。つい先日、香川県は、財政再建策として来年度の歳出630億円の削減を決め、内海ダムも「事業期間を延長し、大幅なコスト縮減を図る」事業としたばかり。

(左写真は朝の散歩で島内のオリーブ園にいく途中に見つけた野ブドウの茂み)
「つまり凍結ですか?」と香川県砂防課の担当者に聞くと、「平成17年度から3年間は、財政再建のための集中対策期間。内海ダムについても増額しないという『足かせ』がある」という。よく分からないのでもっとかみ砕いて話してもらった。
「たとえば用地買収など済んでいないところがありますね。それを済ませるとなるとお金がかかる。しかし増額しない。次の段階に進めないわけではないが、1年でやることを3年とか4年とかかけませんか?という話です」という。つまり、予算をつけっぱなしでノロノロ進むというわけだ。非効率、非経済でとても財政再建策とは思えない。驚くべき先延ばし策だ。

10月31日(日)に内海町で開催された「小豆島『海と山』からの水害を考える全国集会」に行ってきたのだが(★右真左:500人が会場に詰めかけた)、会場前には、看板(★左下写真)を建て、ビラを配っている内海ダム推進派のおじさんたちがいた。推進派のビラは貴重な情報である。受け取って読んでみた。

ダムの目的
驚いたことに、、「推進派住民が掲げているダム建設の理由」と、「県が掲げているダム建設の理由」は違っていた。県が説明責任を果たさず、推進派の事実誤認を放置して、推進運動を展開させていることを意味する。
内海ダムは、香川県側は「利水と治水の二面性を持つ多目的ダム」だと言うのだが、推進派のビラには、年間雨量が少ないので、「節水態度は内海町民の一人ひとりに染みついています」とある。「お百姓さんは、この小豆島に多くのため池を作りましたが」「干ばつの年には川の中に穴を掘り水をため、奪い合って「つるべ」で汲み、川は穴だらけでした」とも書いてある。
なるほど、島のあちこちにため池があることが、移動中にすぐ分かる。ため池を作ったら万事OKだという幻想は、住民だからこそない。ダムを作ったからといって水が湧くわけではなく、天からの恵みでしかないことが分かっている。
このビラでは、「水が少ないからダムが欲しい」という論法にはなっていない。「そんな渇水に『苦労を重ね米を作ってきた』にもかかわらず、一方で、台風で大雨が降ると、大変な被害が起きるからダムが欲しい」という論法なのだ。「利水」という理屈は、事業者の空しい方便でしかないと気づく。
問題は、彼らがダムが欲しいという根拠でもある過去の災害だ。ビラでは、小豆島は、1975年に29名、1976年に39名、合計68名もが山津波によって犠牲になったとされている。しかし、実は、「四国山地の土砂災害」(国土交通省四国地方整備局四国山地砂防事務所発行)を取り寄せてみたところ、被害があった場所は、内海ダムが計画されている別当川とは離れた別な場所だった。
「山津波だ」「洪水だ」と住民の恐怖心を駆り立て推進しても、実際に調べてみると、実は災害箇所と事業箇所が全く別であることは、他のダム事業でもあったことだ。
たとえば、今、首都圏で大問題になっている八ッ場ダムでさえ、昭和22年に大被害を出したキャサリン台風が契機となったが、実際には、キャサリン台風が来たときに八ッ場ダムがあったとしても治水効果はゼロであったことを、国土交通省が自ら、認めたのは今年の話。
熊本の川辺川ダム事業でもそうだった。山津波の被害者は、川辺川とは違う川筋の集落でおきた被害だったことが分かったのは、2,3年前。(詳しくは2002東京ビデオフェスティバル・ビデオ大賞受賞ビデオ「ダムの水は、いらん!」参照)
小豆島の推進派住民がとても賢明だ私が思うのは、二つの箇所がまったく違うということも実はよく知っていることだ。「今度は別当川かもしれないからだ」という意味のことが書いてある。すぐバレル嘘はつかないのだ。
このビラで分かるのは、彼らがダムが欲しいと主張する根拠は、「土砂災害」であって洪水ではないということだ。ところが、県担当者はあくまで、「水を受けとめる」としか言わない。砂防ダムではないから当然だ。だが、一方で、推進派の論法をそのままで放置している。反対派住民に対しては「より一層の理解を求めなければ」とそれらしきことを言う。だが、推進派がダムが欲しいといっている理由は、本来、自分たちが掲げている目的とはずれているのに、放置している。

さらなる問題は、県が言うダムで受けとめる水のことだ。実は、この川は全長4キロ(正確には3.966キロ)しかない。ダムサイトは河口から2.2キロ地点。つまり2キロに満たない、たった1.766キロメートル区間(目と鼻の先)に降る雨を受けとめるだけのダムだ。
実は、内海ダム計画は、正確には「内海ダム再開発事業」といって、現在、ため池状態の小さなダムがあるところに、50メートル下流にダムの壁を立てて、小さな現在のダムを飲み込むような形で、高さ42メートル、横447メートルの8倍大きなダムを作る再開発事業だ。直下の集落から見れば、太ったヒラメを逆さにひっくり返して、ぶつ切りにした断面のようなコンクリ面が見えることになる。平べったくて横長な奇妙きてれつな格好のダム計画である。
山頂から撮った写真に目を凝らして見ていただきたいのだが、ため池程度のダム(★写真中央に見える白いところが湖面だ)、集落、河口(川はあまりの細さに肉眼でもほとんど見えなかった)、海まで全部見渡せる小さな地域だ。
直下の住民は勘弁してくれ、と考えている。なぜなら、昭和36年の集中豪雨のときには、ダム管理者が持ち場を離れていた間に、ダムから水が溢れ始め、付近の住民が命綱をつけて、水が越流している堰堤の中を渡って、中央のローラー門扉を操作して放流して、ダムの両脇が削れて決壊するのを防いだ経験を持つからだ。
このときの香川県の発表は、ダム管理者が不在だったとは言わずに「突然、洪水吐ゲートが操作不能になったから越流した」というものだった。この発表はウソだろうと言われている。なぜなら、このゲートはその後12年間も取り替えられなかったからだ。ウソでも本当でも、住民を馬鹿にした話であり、ミステリーだ。
もう一つのミステリーは、このダムが、日本三大渓谷と言われる寒霞渓から、目を転じて瀬戸内海を見下ろすと、その景色のど真ん中に来ることになることだ。その風景を遮ることにまったくお構いなしというセンスがミステリーだ。

寒霞渓は、瀬戸内海国立公園の中心的観光資源なのだ。
「ダム建設によって水が変わり、醤油の味が変わったら、従業員を路頭に迷わせることになる」とダムに反対をしている醤油会社の山西克明さんによれば、かつてアメリカ人が買い上げようとしたいわくつきの名勝でもある。当時、地元のある名士が、この風景は日本人のものだと、私財を投げ打ってアメリカ人から買い戻し、開発されずに現在の風景を保った。この志を受け継がずしてどうするという話だ。

さて、内海町でも、今年の台風で、多大な被害を受けた。
山からではなく、海から押し寄せてきた高潮で「へその上まで浸かった」という。床上浸水180戸、床下浸水350戸という被害だ。
「集会」は単にダム反対運動の集会ではなかった。サブタイトルが「内海ダム再開発から『高潮・津波』対策への転換!」となっているように、本来は、ビラを配るだけで会場には入らなかった推進派と言われる人とも関心事は共通している。

反対派のところには、「街宣車」も回ってくるという。事業を巡る賛成・反対という結論が、人々の心を疲れさせる。本来は安心できる暮らしを誰もが望んでいるのに、はじめに事業ありきで事業が進むせいだ。
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
