ViVa!のホームへびばろぐ

ダム日記2 河川法を改正しようヨ by まさのあつこ

提供=ViVa!(ビバ!) http://www.viva.ne.jp/

2006年02月25日 フィリピンのダム (カテゴリー: International )

「援助とは何か」が議論されないまま、国際協力銀行を分割するとかJBICという名前は残すとかを日本政府が議論している中、フィリピン在中の波多江さんからメールが来ました。転載します。

以下、転載
■■ フィリピン・サンロケ多目的ダム事業 灌漑部門
     (アグノ川統合灌漑事業)に関する
     日本政府、国際協力銀行への要請書
     
     団体賛同のお願い――3月5日まで     ■■
                       
皆様、

いつもお世話になっております。波多江@FoE Japanです。

日本企業の丸紅と関西電力が進め、私たちの公的資金約7億米ドルが国際協力銀行(JBIC)を通じて使われたフィリピン・サンロケ多目的ダム事業。そのアジア最大級のダムが引き起こしている地元での深刻な社会環境問題については、これまでにも、皆様にお伝えしてきましたが、現在、その建設されたサンロケダムのすぐ下流で、大規模な灌漑事業(サンロケ多目的ダム事業 灌漑部門)が進められようとしています。

その資金源として、フィリピン政府が融資の要請を行っている先は、またもや日本政府です。現在、日本政府も融資検討の最終段階に入っていると見られ、早ければ、今月中にもフィリピン政府との間で融資契約が結ばれるとの報道も流れています。

しかし、この灌漑事業は無視することのできない社会環境影響を孕んでいます。
  ※現地の農民団体があげる同事業の懸念点についてはこちらをご覧ください。
   →「現地農民団体の灌漑事業に関するポジション・ペーパー」(和訳)     

2月21日、フィリピン現地でサンロケダムの問題に長年取り組んできた「アグノ川の自由な流れを取り戻す農民運動(TIMMAWA)」、「コルディレラ民衆連合(CPA)」の2団体およびFoE Japanは、同灌漑事業の社会環境問題を指摘し、現段階での融資の決定を行わないよう求める要請書(英文)を日本政府およびJBICに提出しました。
  ※要請書の全文はこちらをご覧ください。(正文は英語です。)
   (英文)(和訳)

また、さらに強く日本政府の慎重な融資検討を呼びかけるため、この要請書(英文)への賛同を広く集め、3月に再度、日本政府へ提出する予定にしています。

ご賛同下さる団体の方は、3月5日(日)までに
●賛同団体名および代表者の方のお名前(英語にて) を
●FoE Japan波多江(hatae@foejapan.org)
までお知らせください。
日本の皆様より多くのご賛同がいただけますようお願い申し上げます。
====
転載終わり。なお、サンロケダムやその灌漑事業
については、それぞれのサイトでご確認ください。

移転や負担金の問題で十分な合意がなされていないという点では、日本のダムや土地改良事業の輸出とでも言いましょうか。遠くて伝わってきにくい日本の問題です。

まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp
ViVa!(ビバ!)はこちら

2004年11月15日 美濃ダム2 (カテゴリー: International )

小学校.jpg

 林さんの情報シャワーから、美濃ダム反対運動のクライマックスの一幕を簡単に整理すると次のようなことになる。
 1999年5月27日と28日、林さんたちは立法院(日本で言う国会)にダム予算を削除するよう抗議デモを行った。「夜の12時に美濃を出ました。朝の6時に(台北に)着きました。それから皆で、立法院の前に立った」と林さん。
  狭いバスに揺られてぎゅうぎゅう詰め、疲れるわ、眠いわ、腹は減るわ。おまけに立法院に着くと、雨が降っていた。林さんたちは『お願いします』と声を張り上げた。しかし、議員たちは雨の中、足早に通り過ぎて建物の中へ入っていく。

(右写真は、美濃で最初に住民を集めて開いた大集会の会場となった小学校。正門から、その集会を行った講堂(写真中央)を望む) 

 手弁当で駆けつけた林さんたちとは対照的で、ダム推進派は32台のバスでゆったりと到着した。彼らは高級ホテルに泊まり、美味しいものを食べて、次の日はどこかのダムを見に行った。水資源局がスポンサーになっていたという。彼らの垂れ幕には、「食べ物あります。おやつがあります。褒美もでます。一緒にデモをやりましょう」とあった。
 推進派が台座に登りマイクを握ろうとすると、反対派が引きずり降ろす。もみくちゃの大変な騒ぎだった。
連盟事務所.jpg

 私のお気に入りのエピソードは、反対署名を集める過程だ。
 「一軒一軒回って賛成反対を調査した。美濃の人口は4万7千人。全員に反対か賛成かを聞いて回った」
 この偉業を成し遂げたのは、農作業の合間を縫って動いた女性達だ。その結果、72%、2万4238人の反対署名が集まったのだと。

(左写真は、美濃反ダム大連盟の事務所。様々な団体が様々な違う役割を演じた)

 このエピソードに関するさらなる私のお気に入りは、美濃愛郷協進会初代理事長 鐘鐵民さんの語りだ。
 「(運動を始めた)初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」というのだ。一朝一夕の運動ではなかったのだ。

いぇーい.jpg

 これは、「運動を始めたころ、一番大変なだったことは、何ですか?」という私の質問の中で飛び出した答えの一つで、「一番大変だったのは、一地域の問題を、どう全体の問題にしていくかだった。美濃の多くの人は、ダムができた方がいいと思っているのではないかと思った。だから、19ある各里(各集落)で、ダムとは一体どういうものなのか、ダムができることはどんな結果をもたらすのか、説明会を開いて、みんなで把握していくこと、そして力を集めていくことから始めた。始めた頃は、あなた達は自分勝手だ。自分のところにダムを作りたくないのだろうと言われた。初期の頃は、ダムを作ることは良くないことだということを分かってもらうのが難しかった。分かってもらえたから、全戸調査もできた。そうでなければ、反対署名を多く集めることはできなかったと思う。反対署名を最初の頃にやっていたら、きっと、ダムは良いものだと思う人が多く、賛成という意見が多くを占めただろう」
 時間と熱意をかけて、何が真実かを伝えながら皆で考えていくこと。何事もこれより他に方法はないのだ。
(右写真は、10月18日に歓迎・交流会として開かれた「アジアン・ナイト」の模様。アジア各国からの参加者が出し物、芸を披露した。)

 そして、反対運動は次の段階を迎える。
 推進派と賛成派がぶつかり合ったデモの翌年、2000年3月18日に行われた総統選選挙で、野党だった民進党の陳水扁政権が誕生したのだ。
 実は、陳水扁は、1999年2月に美濃を訪れた際、僕を応援したらダムは作らないと約束をしていた。「この時は陳水扁が当選するとは思っていなかった。国民党を倒すためには彼を支持するしかなかったのだ。他に選択肢はなかった。」そして、彼らは陳水扁を応援、陳水扁は当選した。
 そして、当選してお礼参りに来た時の陳水扁の第一声が「ダムは作らない」だった。
 「社会運動は必然的に政治運動にならざるを得ない。そうでなければ何も変えられない」
という初代理事長・鐘鐵民さんの言葉。一から運動を作り上げた人が言う言葉だからこそ重い。もっと重く響いたのは、鐘鐵民さんが私に語った締めくくりの言葉だ。

 ダム無し人物と風景63.jpg

 ダム建設反対運動を起こしたのは年輩者たちだった。そこに若い人が参加して、運動が盛り上がっていった。そしてこの運動は、美濃の地方自治、住民自治の運動へと変わり始めたのだ。「故郷を守るのは、これから長く続く運動だ」と。

(左、長老達と、運動を引き継いだ若者たちの合同写真を撮らせてもらいました。守り抜いた山の風景を背景に。)

      * * *

 二代目理事長、現理事長、そして現事務局長など、もっといろいろな話を伺うことができました。しかし、ネット上での報告はこれぐらいにします。というのも、「台湾」を訪れた当時(1ヶ月前)の私の頭と心で吸収できた情報は、ここまでだったからです。

 帰国後、消化不良だった部分がこなれてきました。それは何かと言えば、美濃の運動と切り離すことができない台湾の歴史です。台湾で1949年以来敷かれていた戒厳令は1987年に解かれました。戒厳令とは、統治者批判ができないことを意味します。
 それまで国民党に対して物が言えなかった人々の「言論の自由」(=政治・思想・信条の自由と言ってもいいのでしょう)の歩み、つまりは民主化運動(=改めて考えてみるとこれは、政治・思想・信条の自由のある生活を進めることですね)と、美濃の運動を、切り離して考えることはできないわけです。まさしくこのことを二代目理事長から聞いたとき、私は、理解できていませんでした。
 1987年から2000年、なんという短い間に、台湾は多くのことを成し遂げたのか。そしてその間に、なんと大きな運動を美濃の人々は成し遂げたのか。
 別の深さの感動が、今、私の中に押し寄せています。
 台湾や美濃で取材したことを、どんなメディアでどんな風に紹介できるんだろう?と考えながら少しづつ営業活動をしてきましたが、ようやく、書くべきもう一つの切り口が見つかったような気がします。

 言論の自由も、政治・思想・信条の自由も、当たり前のものとして持っていたつもりの私にとって、美濃の運動の重さを受けとめることは、改めて、自分が持っている言論・政治・思想・信条の自由の価値に気づく体験となったわけでした。

 ネット上での台湾報告メモを終わります。

まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp

2004年11月12日 美濃ダム1 (カテゴリー: International )

美濃ダム無し風景.jpg
 
 台湾から帰ってきておおよそ一ヶ月。今日はようやく美濃ダムのことを報告します。
 まず右の写真をご覧ください。畑の向こう、向かって左側に三角にとがった山のピークが見えますか?美濃ダムはこの左の山のピークから右の手前の山へと線を引っ張っていたところに、コンクリートの壁が来る計画でした。

 It has been almost a month since I visited Taiwan. I better start reporting on the Meinung Dam. The photo on the right shows you, beyond the field, a pointy mountain peak on the left. From that peak to the mountain on the right you can imagine the concrete wall of the Meinung dam standing in between, which was the government’s plan.

説明を始める.jpg

 「高さ147メートル、横230メートル」とダム計画をそらんじて教えてくれるのは、林△芳さん。
 「反対運動を始めた長老達に会いたい」という私のリクエストに、美濃愛郷協進会(MPA)のメイピンさんが「ほえい?(台湾語で、「モシモシ」という意味らしいが、その語感がキュート。「ほえい?」と誰がが電話する度に聞き惚れていた)」と、次々と電話で呼び出し、続々とダム反対運動の中心となった長老たちが集まってきてくれた。
  その場所は、どうやら、普段は、農機具や車などを置く場所。それが運動の拠点の一つになっているのではないかと思う。彼らが守った山の風景が一望できる見事なスポットだ。

 “It’s 147 meters high and 230 meters wide.” So Mr. Ling (photo on the left) told me about the dam project. In response to my request to see the elderly who started the dam anti-movement, one of the youngest members, Maiping from MPA called them up. And they started to gather one by one to a place where they probably use for storing farming tools and gear. I gathered this place was also shared by anti-dam campaigners’ get-together. It is one of the best places to capture the whole view of the planned dam site.

 全員が揃うまでの間、持ってきてくれた沢山の資料を見せながら、待ちきれないかのように「これをキミにあげよう」と、日本語でお話しを始めてくれたのは、林△芳さんだ。初老のおじいさんに「キミに」と言われたのは初めてで、なんだか、ドキドキした。「キミ」は、きっと、林さんが少年の頃に少女に向けて使っていた言葉なのだ。そう思った瞬間に、こちらまでが、タイムカプセルで、林少年と同年代の一時代前の少女になったような気持ちになってしまった。

 Unable to wait for some others to arrive, Mr. Ling started to explain what happened those days by showing a heap of papers and saying, “I will give you this”. But the expression caught me in a little surprise because of the word “kimi” for “you” in Japanese. It is not everyday event for me to be called “kimi” by the nice gray-haired man nowadays in Japan. I felt I hopped on to a time-machine to go back to the Japanese ruling time when Mr. Ling was still a boy and he and other boys were forced to speak the Japanese language and mention “kimi” for mentioning girls for “you”, which is rather rare in modern Japan. (I will translate the rest of the report later, sorry!)

 日本は昔、台湾を50年も統治していた。日清戦争で負けた清が、台湾に住んでいた人々には断りもなく、台湾を日本に譲渡してしまった。以来、第二次世界大戦で日本が負けて引き上げていくまで、台湾は日本の統治下にあった。
 林さんが話す日本語は、だから、終戦までに覚えさせられたかつての侵略者の言葉だ。林さんだけではない。私がお会いしたほぼすべてのご老人が、なんらかの日本語を覚えておられた。ご自分で話せるほどには覚えていなくとも、私の話す日本語が、純子さんの台湾語通訳を待つまでもなく要所要所で理解されているらしいことが、彼らの頷くタイミングなどから、分かることもあった。

 美濃に着くまでの間に、心をある程度整理しておいて良かったと思った。そうでなければ、林さんたちの目を真っ直ぐ見ることもできなかったかもしれない。少年時代に日本語を覚えさせられた人々に、私は一体、どの面を下げて会えばいいのだろうかということだ。

美濃湖.jpg

 思いがけず最終的に心の整理を手伝ってくれたのは、若きイーティンだった。美濃へ向かうバスの中、美濃に着いてからの取材の相談をしている時だ。それとなく長老たちが私から取材を受けることについてどう思っているのだろうかと聞いたつもりだった。
 すると彼女は私の心境を見透かしたように、「アツコ、かつて貴方の国がしたことを、申しわけながる必要はないョ」と、一つの話をしてくれた。
 「私のおばあちゃんは、日本時代の方が(その後の蒋介石たち国民党時代より)秩序があったし、泥棒も少なかって言うよ。そりゃ、日本の警察や軍にヒドイことをする人が中にはいたらしい。でも、日本人が出ていった後の方がひどかったって」

 美濃へと発つ前、台北にいる間に、台湾在住の日本人の方に聞いてもみた。
 「私がニワカ勉強をしたガイドブックに、台湾の人々は日本人への悪感情を不思議と持っていないと書いてありましたが、それは本当なんでしょうか」と。
 その時に聞いた答え、このイーティンの話、そして滞在中に見聞きした話や、帰国後に読んだ本には、共通点があった。
 それは、統治された者の目から見た、統治者に対する「比較の問題」だ。
 たまたま日本よりも後に来て、日本から台湾を開放したはずの新しい統治者たちの無法ぶりが、目に余るヒドサだったので、日本人はマシだった、毒がもっとヒドイ毒で打ち消されたという話しなのだ。(なんだか、フセインと米軍を思い出すではないか)

 もちろん、今の若い人たちに日本人に対する敵意も悪感情もないのは間違いない。だが、彼らの祖父母世代からすれば、やはり、自分たちの言葉を奪われ、別の言葉を強制され、再び奪われ、再び別の言葉を強制され、つい最近まで(民進党が政権を取るまで)、台湾語を制限されていた。そのすべてを体験したご老人たちの心に、悲哀がないわけがない。
(右上の写真は、「美濃湖」。看板などに書いてある正式名称は「中正湖」。中正とは蒋介石のことだが、彼らはそう呼ばずに「美濃湖」と呼ぶ。これ一つとて、美濃を雄弁に物語る。)
 
 さらに言えば、美濃の人々は、台湾というアイデンティティの他に、美濃で95%を占める「客家(ハッカ)」というアイデンティティも持っている。客家語という言語もある。
 若い人や子ども達の間で、じょじょに廃れつつある言葉だ。その文化とても、長年に渡る侵略の時代がなければ、今とは違う姿があったはずなのだ。
 
 ガイドブックにあるような日本人に対する悪感情がない、という単純な、日本との関係の中だけで整理できることではない。そう受けとめた上で、それから先は、澱みのない気持ちで、台湾の人々にまっすぐに接することに決めた。
 
朝日.jpg

 美濃ダム反対運動の悲喜劇を、無邪気なほどにまっすぐにぶつけてくる林さんのエネルギーのシャワーを浴びながら、私は、そう整理しておいたことを良かったと思った。過去に起きたことを受けとめた上で、どの世代とも新しい関係を築き、尊敬しあえるよう頑張らなければと思えたのだ。

(左写真は、美濃湖から見た日の出)

 次回は台湾報告最終回。

2004年10月29日 湖山水庫(ダム) (カテゴリー: International )

台北車窓.jpg

台湾二日目の10月16日(土)、宿泊先の華僑会館からバスでRWESAメンバーと共に南へ出発。写真は車窓から見える台北。
 
 
チョイ.jpg

途中の休憩で、韓国から参加したチョイさんに写真を撮らせてもらう。チョイさんはガンウォン県の県会議員。ダム反対運動が生んだ議員で、国が公開した過大な治水計画のウソを徹底的に叩き、下方修正させた実力派だ。彼の韓国語のTシャツには「ダムを壊そう!川を生かそう!」と書いてある。

【石門水庫(中国語ではダムは「水庫」と書く)】
台北から約1時間半、桃園にある石門ダムに到着。9月26日発行の台北タイムズによれば、石門ダムは、台湾北部の主要なダムの一つで、全国で三番目に大きい。9月から10月にかけて吹き荒れた台風Aereによる豪雨で2000万立米の土砂がダムに流入した。(おびただしい量だ!東京ドームの16杯分だ!)通常の年間堆砂量の14倍、過去41年で堆積した土砂の35.8%に相当するそうだ。 
 
水利署看板.jpg取水口がふさがり、桃園の都市用水は断水に見舞われた。洪水なのに断水という皮肉な現実がここにもある。台湾政府の経済部水利署(日本で言えば国土交通省河川局のようなものだろう)の最優先課題は、このダムの堆砂を取り除き、寿命を延ばすことだそうだ。現在は、ダム上流から水をくみ上げ大きなパイプで水を運んでいる。さらに上流にダムを造り直す計画も持ち上がっているとMPAメンバーから聞かされた。

15日に台北で会議が行われた時には、経済部水利署の陳伸賢署長も出席し、「部下がペーパーを用意してくれたが、今日は私の言葉で話します」と、ここ10年における台湾でのダムに対する人々の意識の変化、そして政府としてもダムを作ることによる環境への影響、つまりは「将来の結果」を無視してきたことを自己批判していた。

アビバ.jpg

ダムの写真は世界全国どこでも同じで退屈なので、石門ダムを背景に、インターナショナル・リバーズ・ネットワーク(IRN)のアビバに登場してもらおう。IRNはアメリカのサンフランシスコに本部を持つNPOで、彼女とは97年に一度会っている。オーストラリア出身で、その時にあったオーストラリア・アクセントが「ほとんど消えちゃってる!IRNはもう何年になる?」と聞くと「7年半。ほんの1年のつもりだったのに。終身刑になるとは思っていなかったわ」と冗談を飛ばしていた。

蒋介石.jpg

その対面、蒋介石の像がダムを見下ろす。国民党政権を民進党が取って代わってから、台湾は劇的な変化の真っ最中だ。
 
 
 
 
【湖山水庫】
呉さん.jpgお腹が減り、無言になり、皆がウトウトし始めた頃、到着したのが緑に囲まれたレストランだった。予期せず、雲林(ユンリン)野鳥の会や湖山ダム反対全国連盟の人々たちが拍手で迎えてくれた。迎えられた側は皆、寝ぼけ眼でビックリ。お腹が満たされた後、野鳥の会の呉世郷さんが、ダム計画、目的、影響などをパワーポイントで説明してくれた。

「では次に、学生たちが劇をお見せしますので外へ!」と呉さん(呉さんは環球技術學院の先生だ)が言うのを聞いて、聞き間違えたかと思ったらそうではなかった。学生たちは、海外から訪れた私たちのために、八色鳥を主役にした劇を準備してくれていたのだ。

どうしようかと.jpg

湖山ダムの予定地は、八色鳥(Fairy Pitta)の生息地だ。台湾に夏、南から渡ってくる渡り鳥で、野生生物保護法で絶滅危惧種に指定されている。それだけではない。台湾政府の農業委員会が雲林野鳥の会に委託して行った調査により、湖山ダム予定地は、世界で最も八色鳥の生息密度の高い地域だと分かったというのだ。

劇は中国語で行われたので、最初はワケが分からなかったのだが、どうやら、ダム計画が持ち上がって、大変だ、大変だ、と騒ぎになり、森の動物たちが集まって、「どうしたものか?」と相談するという筋だ。

公約.jpg

やがて、相談かまとまって、八色鳥が、12月の国会議員選挙に立候補することになる(実際に12月には台湾の国会議員選挙があるのだ)。八色鳥は大声で選挙運動を展開する。「私が議員になったら、湖山ダム建設を中止して、ダムに代わる代替案を提案します!」公約を読み上げる八色鳥、「え~い」と回りで盛り上がる動物たち。

投票用紙.jpg

最後に「八色鳥に清き一票を!」と呼びかける。台湾の選挙では実際に文字が読めない人でも投票しやすいようにと、写真が投票表紙に載るのだそうで、ちゃんと八色鳥の写真が載っている。おしまい。拍手。

あとでだんだんに分かっていったのだが、台湾の先生たちは、小学校から大学まで、実に、自分の信じるところを生徒たちも巻き込んで、社会運動をするのですね。いや、スゴイ。これぞ、教育です。

トラックがいい.jpg

「さぁ、じゃあ、ダム予定地へ出発!トラックと車を数台用意しています。女性は優先で乗用車へどうぞ!」と呉さんは叫んだのだが、外国から来た私たちはちょっとした冒険気分で「わ~い!」と男も女も皆、雪崩れをうって、我先にとトラックの荷台へダッシュ。写真を撮ったあと、私も(笑)。

まだ動かない.jpg

後で、イーティンが、ボソっとつぶやきました。「乗用車の方がいいと思ったのに、誰も乗らず、皆がトラックに乗ったので、『なぜ~???』と台湾人はショックを受けてイマス。」爆笑。

「さぁ、出発~」と皆はトラックが動き出すのを待ちますが…、「ん?動かない?」皆で、エンジンの押しがけを始めました。「それ~!」動かない。「それ~!」まだ動かない。どんどん遠くへ行ってしまいます。ところが諦めた途端。ブブ~ンとエンジン音が。

伏流.jpg

そんなワケで、山の中へと入っていきました。着いてびっくり、どんな川かと思ったら、足でまたいで渡れる程度です。伏流しているところは見ての通り、水がほとんどありません(左写真参照:皆は河床の上に立っている)。乾期だとはいえ、歩いて二歩で渡れる川にダムを作ることの非効率を考えると、八色鳥でなくたって首を傾げます。草の生え具合から見ても、雨期でも大して水がないことを物語っています。

経済部水利署長が「台湾の降雨は四季を通じて平均していない」と言ってはいたが、それなら、ダム以外の手段で水資源を確保した方がより経済的ではないかと、一見して思わざるを得ませんでした。

水が少ない.jpg

呉さんからは地盤が悪いという説明がありました。海外から来た面々は皆、それぞれ、自国でどんな場所がダムに狙われるのかを思い出して息混じりです。しかし、だからこそ、「国境を越えて知恵を集めていっしょに連携しよう」とRWESAのファシリテーターのジョアンが呉さんにエールを送り、

ダムにNO.jpg

最後は皆で、「ダムにNO~」と腕をバッテンのポーズで決めました。
 
 
報告は続きます(To be contitued)
 
 
まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp

2004年10月27日 黄蝶の誘い (カテゴリー: International )

黄蝶谷.jpg

黄蝶の誘い (Invitation from Yellow Butterflies)
 台湾の美濃ダム計画のことを初めて知ったのは、1997年、関東学院大学の宋永こん教授が開いた交流会に呼ばれていったのが最初です。黄蝶が舞う谷を沈めるダム計画の話を初めて聞いて、それが一体どんな谷だろうかと想像し、「いつか、きっと行く」と思いました。その時に出会った黄鴻松(ファン・フンスン)さんと劉孝伸さんと今回は再会を果たすことができました。(お名前に漢字・片仮名・ひら仮名が混じっていてごめんなさい)
 It was 1997 when I first heard about anti-dam movement in Meinung, Taiwan. Prof. Sou Eikon from the Kantogakuin University invited me to a meeting between some Taiwanese and Japanese. I listened to Taiwanese visitors to talk about the dam project that was to sink the Yellow-butterfly Valley. I imagined dancing fluffy thousands of butterflies and thought to myself I would visit the valley. Finally again I met two fellows, Mr. Huan and Mr. Liu and visited the place.

 これからじょじょに雑誌などでも発信していくつもりです。でも、まずは、取材に協力してくださった方へのお礼状から始めたいと思います。このサイトを覗いてくださる他の皆様にも、美濃ダムの反対運動が、いかに若い世代によってアクティブに盛り立てられているかを見ていただけると思うからです。
 This is my open thank-you note to those who gave me great cooperation for interviewing people and visiting places in Meinung. Just looking at pictures the rest of the world would know how younger generation is now activating the Meinung Community and the anti-dam movement there. That’s all for English now. Enjoy people's smiles on photos! Thanks!

イーティン.jpg

●国際会議を取り仕切った美濃愛郷協進会のイーティン!謝謝!写真は、3日の会議の会場である高雄市の大和平校区文大学にて。会議の案内板の前で忙しく携帯電話中のイーティンを捕まえてパチリ。彼女こそが、この国際会議の最初の言い出しっぺです。疲れていても、いつもにこやか。お疲れさま!(You must be tired! Take care!)

アーサー.jpg

● 1997年に会い、今回、日本統治期の1935年に設立された「雙渓熱帯樹木園」に案内してくれた劉孝伸さん。謝謝!彼は、学校で生物の先生をしており、自然を愛する次の世代を育てています。彼の後ろに見えるのは、清の時代に作られた水路。

黄.jpg

● 同じく1997年に日本で一度お会いしました。美濃愛郷協進会の理事の黄(ファン・フンスン)さんです。案内してくれた彼の車には、相模川キャンプインシンポジウムのステッカー「川は誰のものか」が張ってありました。この写真は、美濃愛郷協進会の事務所の裏庭です。中国式の建物で、表に向かって人がゆったり椅子に座る構図になっていますが、裏庭は、その椅子にあたる、ゆったりした空間だそうです。彼も小学校の先生。日本語も話せます。

 美濃の運動の特徴として、地域振興も活動の一環ですが、その一つで、中央・地方政府からも助成金をもらってコミュニティカレッジが設立されています。その副主任さんや職員の方々も3名が取材に協力してくださいました。

メイピン.jpg

1. 取材の手配を全面的に支援してくれた頼梅屏(メイピン)さん。「日本統治時代のダム計画を覚えている方に会いたい」と事前に無理なお願いをしていたのですが、美濃中に電話をしまくって本当に探し出してくれました。何本も何本も「誰か知らない?」と電話をかけて「あの人なら知っているんじゃない?」と聞くと、また電話してあたっていくという驚くべき作業を通して探し出してくれたという話を聞いて、思わず、「電話何本かけたの!」「ん~、20本くらいかな」「え~ぇ!!ありがとう(泣)。メイピンさん、CIAになれるね!」と言ったら「美濃に秘密なんかないもの!」と。密な地域社会なのだ。面倒だったろうに、嫌な顔ひとつせず、笑顔で答えてくれました。本当に謝謝!

 実は、美濃の運動のクライマックスの一つは、前号でも少し触れましたが、4万人近い美濃人口の一軒一軒を、女性たちが戸別訪問をして、反対か賛成かの署名を集め、そして、72%の反対署名を立法院にぶつけるべく大々的なデモを展開したときです。
 なるほど、そんな偉業を成し遂げた人々を見てきたMei-pinさんにとっては、日本からやってくる売れないジャーナリストのために電話を20本かけることさえも、いい加減な気持ちではやらない。一つ一つが真剣なのだ。その真剣さに、私も応えなければと、身が引き締まったのです。

チンフエ.jpg

2.頼梅屏(メイピン)さんの同僚の邱静慧(チンフイ)さん。彼女は車を運転して、私をあちこちに連れて行ってくれました。彼女の背景は、小学校の廊下に掲示されている黄蝶谷を守ろう、自然を守ろうという環境教育のポスター。謝謝!日本に来たら、私があなたを案内するよ~。

3.張正揚さん。皆さん、お忙しい中、細切れの時間を都合しあって、私の取材につきあったり、案内をしてくれたりしたのですが、張さんは最後の日に、美濃から高雄の空港まで送ってくれました。コミュニティカレッジの副主任です。謝謝!写真を撮りそびれてないのが、残念です。

純子さん.jpg

● さて、今回、中国語しか分からない方の取材のときにお世話になったのは、星純子さんです。星純子さんは、現在、台湾で美濃について詳細に研究中。私が帰国後、「美濃愛郷協進会」のウェブサイトにリンクを張ろうとしてgoogleで検索したら、なんと出てきたのは、星さんが2002年に「全国公害患者の会連合会の視察に参加して」書いた文章でした。彼女のライフワークが「台湾」なのです。謝謝!純子さん!

氏家、エンテ.jpg

●オマケの写真。美濃の朝6時。宿の自転車を借りて、フィリピンのクレメンテさんと日本からの参加者、RWESA(東・東南アジア河川ウォッチ:ルイサ)の氏家雅j仁さんと、朝飯前の散歩を楽しみました。

報告は続けます。(to be continued)

まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp

2004年10月21日 ダム代替案会議 (カテゴリー: International )

Beyond dam.jpg

台湾のNGO「美濃愛郷協進会」が主催したダム代替案国際会議に10月15日~17日まで行ってきました。

 「Beyond Dams」(中国語では「国際河流会議」)と名付けられたこの会議に、東アジアから台湾・韓国・日本・香港、東南アジアからベトナム・タイ・ビルマ・タイ・カンボジア、そしてアメリカからダム問題に取り組むNGOが出席。台北(15日)、台中(16日)、高雄(17日)と場所を変えつつの全国行脚会議&現地視察でした。

国際会議風景.jpg

 主催者の「美濃愛郷協進会」(英語名はMeinung People’s Association)は、日本で言えば、川辺川ダムと吉野川の運動を足して二で割ったようなダム反対運動をやっているNGOです。
 つまり、約4万人の美濃全域の全世帯を、一軒一軒当たってダムの反対署名を集めていったノリは川辺川の利水裁判の闘いを思わせます。(MPAはそこで72%の反対署名を集めて立法院(日本の国会)に予算削減を要求した)
 また、これは吉野川の住民投票のやり方をも思わせます。同時に、MPAが地方や中央政府に予算を出させて、地域振興としてコミュニティカレッジを設立したところなども、「緑のダム」構想という土俵に行政を引き込んだ吉野川の運動と似たところがあります。

himmeno.jpg

 さて、この国際会議、日本からは1日目に、徳島県吉野川の運動を盛り上げた姫野雅義さんが、ダムに替わる「緑のダム」の研究 発表を、3日目には「People’s Struggles and Participation」(人々の闘いと参加)というテーマを与えられて、私が日本の脱ダム傾向についてプレゼンをしました。

 以下は、私がプレゼンにつかったパワーポイントの元のテキストです。プレゼンをしながら口頭で喋ったことも含め、概要を日本語で書き加えます。

1. Reducing Dam Budget in Japan(減少する日本のダム予算)

3000 dams existing and other 240 dam projects to go, or to stop
(既存ダム3千と新規計画240ダム)
94 dam projects stopped since FY1997
(1997会計年度以来94ダムが止まった)
dam budget reduced by 40% to 380 billion yen from 659 billion after FY1997
(ダム予算は1997年以降年間6590億円だった予算が4割減り3800億円になった)

政野プレゼン.jpg


Background(背景)

National debt 700 trillion yen(国の赤字 700兆円)
87,5 times of the Japanese annual General Account Budget, 6 million yen per capita
    (一般会計予算の87,5杯、国民一人600万円の借金。この借金を返そうと思えば国は87.5年間一円も使えない)

Dam Project Reviewing Council applied for 14 dam projects in 1995 (1995年に14のダム事業にダム審議委員会設置)

For nation wide criticism against The Nagaragawa River Estuary Barrage (dam), Ministry of Construction (Now Ministry of Land, Infrastructure and Transport) finally took measures..(長良川河口堰を初めとして全国規模のダム反対の機運が高まり建設省は動かざるを得なくなった)

Lessons learned about(政府と反対運動側双方が得た教訓)

1) council members (審議会メンバーは大事である)
2) public participation (市民参加は大事である。参加が増えれば増えるほど批判は高まる)
3) epoch-making event (out of 14 projects, Hosogouchi Dam in Tokushima Pref. suspended due to strong opposition by the community, Kito village mayor Megumi Fujita and the village assembly, that lead to the first large scale dam stopping in Japan in 2001.(木頭村では住民、議会、村長の強力な反対で一時休止となったが、こうした画期的な出来事は、反ダム運動を盛り上げる意味で重要である。やがてこのダムは中止となった)

Comprehensive Inventory for Dam Project in 1997(1997年に建設省がダム総点検)
All the dams checked but no public participation, only internal procedure in the Ministry.
    (教訓を元に、建設省は市民参加をさせずに内部でダムの棚卸しを行った)

Public Works Reviewing System started by Prime Ministry Ryutaro Hashimoto in 1998. (1998年に当時の橋本龍太郎首相が公共事業評価制度を開始)以下は評価を行う事業の条件

Prolonging projects as follows were reviewed.
1) 5-year-budgeted project at the construction stage, if no agreement reached on compensation or if construction not started
2) 10-year-ongoing projects, after construction started
3) 5-year-passed project after planed
4) drastic social and economic change
1)~4) picked up by and reviewed by the Ministry

Ruling parties recommended the government and the prefectures to stop 233 projects including dams, roads airport, etc. in 2000. (2000年に与党は233の公共事業について政府に中止勧告)

1) 5 years passed and not started
2) 20 years passed after planned completion date
3) suspended projects by the government Reviewing System
4) 10 years passed after planed but no adopted yet
*The most of the recommendation accepted and some not”

Dam Cancellation(ダム事業の見直しの結果、中止になった数)
Year    Number of Dam Cancel
1997    4
1998    3
1999    4
2001    32
2002    3
2003    12
2004    6
Total    64
*94 including reservoirs smaller than 1-million-m3(100万立米以下を含めれば94ダム)

と、政府の見直しによってダムが止まってきたように見えるが、実は1993年に結成された「水源開発問題全国連絡会」が、ダムの見直しをする仕組みを提案したのが先にあり、2年がかりでその提案が(政府は認めはしないだろうが)認められたとも言える。ダム反対運動と同時に市民側が提案を行うということが重要なのだ。

Reformers in local governments (改革派知事の登場も脱ダムの流れを加速させた)

Tottori Governor, Yoshihiro Katayama, stopped Chubu Dam in 2000(2000年に鳥取知事が中部ダムを止める)
Nagano Governor, Yasuo Tanaka, "No Dam Proclamation" in 2001(2001年に長野県知事が脱ダム宣言をする)
Kumamoto Governor , Yoshiko Shiotani, made decision on dismantling the Arase Dam in 2002(2002年に熊本県知事が荒瀬ダム撤去を決定する)

Strong backlash (強い反発もある)

vested interests / iron triangle among politicians, bureaucrats and industries(既得権益、鉄のトライアングルは健在)
needs for regional development depending on public works due to failure of policies for agriculture, forestry and fishery(第一次産業政策の失敗から地域振興策としての公共事業を求める地域もある)

2. People’s Struggles (人々の七転八倒)

The River Law reformed in 1997(1997年、河川法が改正されるが)

Issue 1: Inappropriate Timing for public participation, too late, too little -----Article 16-2 requires public participation for detail planning if necessary. However, prior to planning, the Ministry decides Basic Policy according to Article 16. And the Basic Policy determines concrete plans.(問題その1は住民参加のタイミングが遅く機会が少ないこと。ダムを作る作らないの大枠を国土交通省が決めてしまったあとで住民参加が必要とあらばという程度で、決定権はいまだに国交省が握っている)

Issue 2: Article 16 and 16-2 have loopholes -----should-be-introduced procedure are not yet enforced, for interim measures without expiration. Out of 109 first-grade River Systems, only 27 Rivers introduced and 82 untouched as of July 2004.(問題その2は経過措置という抜け穴があり、今年7月現在で109水系中27水系でしか「環境配慮」をいれた新河川法による枠組みの見直しがなされていない。)

Some case present issues ”Who decides members?” “Who pays participation cost?” “No use without technical data and no argument for high water level in flood design”(参加メンバーを誰が選ぶか、参加のコストは誰が払うか、計算上の洪水レベルが正しいかどうかを検証する根拠データなしに参加などしても意味がないなどの問題が、「参加」が行われたケースでも、すでに提示されている。)

No agreement on compensation: for example 52 year-old Yamba Dam project in Gunma Pref. (群馬県の八ッ場ダムでは52年も経つのに補償を巡る合意がなされていない。)

Lack of information for appropriate timing. Although Information Disclosure Law enforced in 1999, due to lack of understanding and experience for both bureaucrats and the public(1999年に情報公開法ができたが開示されるタイミングが遅い、この法に対する官僚と国民側の理解も経験も足りていない)

The Diet cannot be involved in decision making for individual projects(国会はここのプロジェクトのための判断に関われない)

Budget System has no transparency(予算システムに透明性がない)

Project Reviewing Councils. Not balanced members, not opened to the public(事業評価委員会のメンバーが偏っている)

Environmental Impact Assessment Law without“without project”(環境アセス法に「事業をやらない」というオプションがない。)

Others/ Lack of leadership = Minister–bureaucrats relation / inefficient judiciary system(その他)

3. Lessons from International Standard(日本が国際社会から学ぶこと)

Simple rules, taking effect for international cooperation from April 2004, are not yet applied for our own national dam projects!(2004年4月にJICAが適応を開始するルールさえ国内ダムには適用されていない)

Japan International Cooperation Agency Guidelines for Environmental and Social Consideration, April 2004, JICA. (JICAは環境社会配慮のためのガイドラインを発表した。)

“JICA has been requested to take suitable considerations of environmental and social factors. Democratic decision-making is indispensable for environmental and social considerations, and, in order to achieve an appropriate decision-making process, it is important to ensure stakeholder participation, information transparency, accountability and efficiency in addition to respect for human rights.” (Page 1 Basic Matters )

In collaboration with the recipient governments, JICA conducts EIA-level environmental and  social considerations studies including a monitoring plan, an institutional arrangement, and mitigation measures to avoid, minimize or compensate for adverse impacts. JICA analyzes alternatives including a“without project”situation.”(Page 14 Feasibility Study)

The Aarhus Convention (オーフス条約)
Convention on access to information, public participation in decision-making and access to justice in environmental matters, adopted at the Forth Minstrel Conference "Environment for Europe" in Aarhus, Denmark, on 25 June 1998. (デンマークのオーフスでできた3つのアクセス権を確保する条約で、「情報へのアクセス」「意志決定への参加へのアクセス」「訴訟へのアクセス」を意味する)
Japanese NGO Network, ”Aarhus Net Japan” was organized in 2003 to work for better public participation, butter access to information and better judicial system.(日本では03年にこの3つのアクセス権の獲得を目指して市民ネットワークが結成された。

完璧な国はない。頑張ろう。とまぁ、そんなことを20分チョイで話してきました。
東アジアや東南アジア諸国の動き、それに美濃愛郷協進会の感動的な住民運動の道のりについても、おってご報告したいと思っています。

右の写真は、会議後に訪れたダム反対運動の現場である「美濃」の美しい小豆畑。水は山から引いてくる。小豆畑.jpg


まさのあつこ atsukom@mrj.biglobe.ne.jp